一握の歌

  高校生の頃の私はマンガ家になるのが夢で、毎日のようにイラストを描いていた。好みのジャンルはSFだったので描くものといえば、とにかく宇宙だの機械だのとそれらしいものばかり描いていた。無論、物語の主な舞台は未来の世界となるわけで、思い起こすといささか赤面してしまうような、くだらない代物が跳梁跋扈する困った世界を、それは真剣に描いていたものだった。
 まぁ、これだけならどこにでもいる、ただのSFヲタク(註1)という生き物にすぎないが、私の場合は何でもリアリティがなくてはいけないという、病的なところがあった。
 したがって、私の描く未来世界に登場するあらゆるものは、なんらかの科学的裏付けが不可欠であったのだ(しかも自身の能力を無視した過大な要求であった)。
 そんな中に携帯型の音声再生機器、つまり、どこでも音楽を楽しむための製品をどうするかという問題があった。現実の製品として有名なところではSONYのウォークマンがある。これなどは、あまりに有名になったため携帯型ヘッドフォンステレオの総称として、一般名詞化してしまっている。当時のそれはカセットテープを利用するものが一般的で、コンパクトディスク(CD)を再生できる携帯型の機器は、大変高価な最新機器であった。そのせいか、CDを利用する携帯機器は当時のいろいろなSFで、未来のテクノロジーとして描かれていた。
 では、その時の私もそれに倣ってCDを未来の小道具として採用したかというと、答えは否である。実は、中学生の頃にCDについての小論文を読んでいたので、あまり新しい技術には見えなかったのだ。そこで、次のように考えた。
 カセットテープにしろCDにしろ物理的に動く部分がある以上、故障や劣化、環境による影響は避けられない。それらの問題を回避するには、記録媒体から動く部分をなくしてしまえばよい。そうなると、未来の音声記録は回転するテープやディスクではなく、ただの小さな板のようなものになるのではないか。そして、動かないようにするためには磁気記録ではなく、半導体を用いた記録装置になるに違いない。
 考えを整理すると、小さな板状の半導体記録媒体、それは切手程度の大きさで、メモリカードなどと呼ばれるだろう。それ以上小さくなるとかえって扱いが難しくなる。そのカードをタバコの箱程度の大きさの装置に差し込んで再生する。メモリカードは軽く薄いので何枚でも携行できるだろう。動く部分がないので振動や衝撃にも強く安定した再生が可能になるだろう。
 できた、これだ! と、当時の私は(別に実用化したわけでもないのに)狂喜乱舞した。だが悲しいかな、それ以前にSF作品としてのマンガは、とうとう完成させることなく、せっかくのアイデアもうす汚いメモ書きとして残っただけだった。
 しかし、この世は驚きに満ちている。私の考案したその携帯型音楽機器とほぼ同じものが実用化されているではないか。しかも、私は西暦2200年頃の小道具として想定したのに、それが2000年を迎える前に実用化されたのだ。その驚異の技術はこのエッセイの後半で紹介することにして、まずは音声を記録再生するという技術の歴史を例によってコンピュータをからませながら解説していくことにしよう。
 音楽には人を動かす力がある。程度の差こそはあれ、これは誰もが認めるところだろう。たが残念なことに、音は書き残せない。音楽の持つ、呪術的ともいえる力に身をゆだねるためには、自分自身が演奏している現場に出向いていかなければならないという時代が長く続いた。だから、音をそれ以外の何かに変えて記録したり伝えたいという欲求は、科学が実現しなければならない大きな命題のひとつになったとしても、それは当然のことだろう。
 私の知る範囲で、音楽を記録し、再生する試みとしてある程度の成功を収めた最初のものはオルゴールである。今でこそ、古風なインテリアの一種と見なされているが、本来は自動演奏機械を目指した技術だった。
 オルゴールは商業的にも成功したものの、それが奏でる調べはやはり本物とは違うものだった。というより、それは機械の調べであって、誰かの演奏を記録し再生したものではない。さらに、オルゴールでは「声」は再生できないという、決定的な弱点があった。そのため、2つの重要な技術革新を迎えて、音声再生技術としてのオルゴールは衰退をたどることになる。ひとつはトマス・エジソン(Thomas Alva Edison,1847-1931)による蓄音機の発明であり、もうひとつはアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell,1847-1922)の発明した電話である。
 そもそも音とは物質を伝わる振動であり、我々の耳が捉えたその振動を脳が音として理解している。つまり、物理的には振動なのだからそれを何かに写し取ればよいのではないか、これが蓄音機の基本原理である。蓄音機では、その空気中を伝わる振動を針を使って円筒上に貼ったスズ箔に幅と深さが変化する小さな溝として刻むことにより音を記録する。この時点で、音は小さな溝に変換されたわけだ。再生するときは、その溝に沿って針を動かすと溝の変化が針に振動として伝わり、それを漏斗状の拡声器で増幅して空気を振動させる。この空気の振動が、音として聞こえるわけだ。これは最近復活しているレコードでも基本は同じである。この蓄音機の登場により、音声を記録し保存するという概念が現実のものとなった。
 次に、もうひとつの重要な技術革新である電話についてだが(註2)、音声を別な何かの振動に変換するという原理は同じである。が、円筒上のスズ箔の溝ではなく電気の振動に変換するというところが非常に画期的であった。スズ箔を貼った円筒では、それに記録した音声を他人に伝えるためには、円筒自体を送らなければならないが、電気なら電線を張れば時間差なしで伝えられる。つまり、電話によって、音声を記録するのではなく、空間の隔たりを越えて同時に共有するという概念が生まれたことになる。これは、後に放送という形に結実することになる。
 音声を電気の信号に変換するという技術は蓄音機をレコードに変化させ、さらには磁気の変化として記録するという技術を生んだ。電気と磁気は切っても切れない関係にある、というより、そもそもどちらも電磁場という力が、ある面では電気として、またある面では磁気として捉えられているだけであり、電気と磁気は容易に相互変換できる。だから、電気信号に変換できた音声を磁気の強弱として記録できると考えるのは、当然のなりゆきと言える。
 磁気記録技術はテープレコーダを生んだ。そして、この磁気記録技術はレコードのような溝を刻むという技術に比べ、極めて容易に記録できるという画期的な技術でもあった。結果として、テープレコーダは個人が手にできる記録装置となり、カセットテープという従来よりコンパクトな形態に進化するに至って、ついには持ち運びのできる装置にまで発展した。ウォークマンは、この技術の頂点に達した機器と呼べるかもしれない。
 記録の容易さは、同時に複製することの容易さにもなる。だから、カセットテープを複製することは、比較的簡単なことであった。だが、問題もあった。それは、複製するたびに記録が劣化していくということである。劣化するということは、複製を重ねるごとにオリジナルの音からかけ離れていくということに他ならない。どんどん劣化していくそれは、ついにはただの雑音となってしまう。音声に限らず、記録技術とはすなわち劣化に対する戦いの技術でもある。
 劣化を防ぐ技術革新は、とんでもないところからやってきた。それは、諸君もお待ちかねのコンピュータの世界からもたらされた(さぁ謹聴)ディジタルという技術である。
 ここで、クロード・シャノン(Claude Elwood Shannon,1916-)という遊び好き(註3)で風変わりな天才科学者が登場する(もっとも天才という人種は皆、風変わりだが)。当時、マサチューセッツ工科大学(MIT)に在籍していたシャノンは情報という概念を研究し、あらゆる情報は0と1の組み合わせからなる基本単位「ビット」に変換できるという、情報理論を1948年に打ち立てた。0と1、すなわちディジタルに変換できるというこの理論の登場は、コンピュータ技術史において画期的などという程度の衝撃ではない。それまで、コンピュータは高速な計算機として開発が進められていた。その高速計算機を、数値だけではなくあらゆる情報を処理できる装置に変えてしまったのが、この理論なのだ。コンピュータ科学はシャノンによって、大きく変貌させられたというのが正しいだろう。
 ディジタルに変換するという技術は、情報の劣化を免れるという側面も持っていた。つまり、0と1の組み合わせを間違えさえしなければ、何度複製しても同じ2進数の数列を作り出せる、そして同じ数列は同じ元の情報に戻せるということだ。
 音声をディジタルに、これがCDの基本原理である。CDの記録面にはピットと呼ばれる微細な長短の穴が開いている。この穴の長短が0と1を表している。ピットはレーザを利用して読みだされる。ピットの長短がレーザの反射の強弱になってセンサーが読み取り、電気信号のオン、オフに変換される。電気信号のオン、オフになってしまえば、あとは今までのエッセイで解説したとおり、コンピュータで扱える。
 さらに踏み込んで、どうやって音声をディジタル化するのか解説しよう。これにはいくつかの方法があるが、CDではPCMという技術を用いている。これは、Pulse Code Modulationの略で、符号化変調と訳される。先に音は物質を伝わる振動であると解説したが、正確には音は波動であるということになる。波動、つまり波とは振動が物質を伝わる状態であるが、これを水の上を伝わる波に例えて説明しよう。
 水の波は、水の表面のデコボコが伝わっていく様子である。だから、鏡のように平らな状態は波がないという(当り前だ)。デコボコとは表面が上下に振れていることになるから、これは振動ということになる。波がある状態では、表面がデコボコしていてそれが移動しているわけだが、そのデコボコにも大小がある。これが波の高さで、海ではこれを波高と呼ぶが音ではこれを振動の強弱、振幅と呼ぶ。さらに、波には高さだけでなく波の山と山、谷と谷の間隔という要素もあり、これを波長と呼ぶ。
 波動について簡単に説明したところでようやくPCMの説明に入るが、波を横から見たところ、つまり断面を想像していただきたい。すると、振幅は上下の幅に、波長は横方向の長さになる。この波の断面を横方向に細かく千切りにする。これで、波は断面から極めて細長い短冊(というよりシュレッダーの切りくず)のようなものの連続になる。この細長い千切りの一本一本の長さを計って数値にする。こうして波の千切りは数値の集まりに変換される。千切りの間隔を細かくし、その1本の長さも細かく計れば、充分に滑らかな波を再現できるというわけだ。現実のCDでは、千切りの間隔は44,100分の1秒であり、千切りした短冊の長さは0 から最大までを65,536等分(16ビット)した単位で計っている(註4)
 音を数値に変換できたということは、もちろん2進数の数値にも変換できる。そして、CDではそれをピットとして記録している。磁気記録にしても、元は音の振幅を磁気の強さ(磁気の書込強度という)で表現していたものを、磁化されている、いないと記録すればやはり2進数を記録できる。そしてこれが、フロッピディスクやハードディスクといったコンピュータ用の磁気記録媒体の基本原理でもある。
 冒頭で紹介したメモリカードによる音楽記録再生もこれらと同じで、2進数に変換した音声を磁気やピットではなく、半導体メモリに記憶させればよいだけである。以前のエッセイでDRAMを取り上げた時、それはたえずリフレッシュし続けないと記憶が消えてしまうので、そのための電力が必要だと説明したが、実はフラッシュメモリという電力を必要としない半導体メモリもある。それを利用すれば、小さくて薄いメモリカードも実現できる。そして、そのメモリカードを利用した携帯型音楽機器は、MP3プレーヤと呼ばれている。MP3とはPCMと同じ、音声をディジタル記録するための技術である。MP3についても解説したいところだが、あまりにも複雑な技術なのでこれはまたの機会にしたい。
 さて、長い歴史と様々な試行錯誤を経て、音楽は指の間を流れ落ちる砂のように、奏でては失われるひとときの快楽から、我々の手のひらに収まり、好きな時に繰り返し楽しめる手軽な娯楽になった。今や一握りのメモリカードに数十時間分もの音声を記録することが可能である。だが、いかに手軽になったとしても、音楽の持つ価値や力がわずかでも減じられるということはないだろう。好みには個人差も大きいだろうが、音楽に身をゆだねて心地好い時を過ごしたいという欲求は変わらないと思うからだ。こうした幸福の追求を目的とした科学技術の話は、私も解説していてとても楽しい。
 実によい時代になったものだが、時にはその掌中の歌に、それを実現するまでの長い歴史を、そしてそのために血の滲むような研究努力を重ね、あふれんばかりの才能をつぎ込んでいった数々の先人達の艱難辛苦に思いを馳せるのもよいのではと思うが、いかがなものだろう。
(註1)「おたく」をヲタクとしたのは、元々この表記だったからだ。ちなみに、ヲタクという呼称の起源はこうしたマニア達が、会話の相手を「おたくは・・・」と呼ぶ者が多かったからという話である。身に覚えはないが・・・。
(註2)面白いことに、実は蓄音機よりも電話の方が先に発明されている。蓄音機は1877年、電話は1876年である。先と、いっても1年違いだが。
(註3)遊び好きといっても、いかがわしいたぐいの遊びではなく、いわゆるゲームに類するものだった。また、一輪車も好んで乗っていたらしくMITのキャンパス内を乗り回していた姿が日常的に目撃されていたらしい。
(註4)千切りの間隔は標本化周波数(サンプリング・レート)、千切りの長さを計る精度は分解能という。