2009/7

北斗市戦没者慰霊祭

 先日、北斗市戦没者慰霊祭に参列した。太平洋戦争に敗戦してから64年、北斗市の戦没者414柱の御霊を前に、犠牲に足る国づくりをしてきたのだろうかと、いろいろ思いを巡らせていた。
 このところ、北朝鮮問題について先制攻撃論や核武装論が目立つようになってきた。私も元自衛官であり現在は予備自衛官であるので、国や同胞のために戦おうという意志はあるが、最近のこういったタカ派っぽい意見には違和感を感じる。
 太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、再評価しようという動きも強くなっているように見える。歴史の再評価は常に必要なことであり、過去に学ばずして未来を語ることは愚かしいことである。しかし、過去から学ぶことは過去の出来事を覆すためではない。過去の戦争の功罪を問うこともそれなりに大切かもしれないが、最も大切なことは同じ失敗を繰り返さないことだ。
 太平洋戦争という呼称は、戦勝国のアメリカから押しつけられたものであるから、先の大戦は日本にとっては「大東亜戦争」である、という論者は多い。そうかもしれないが、とても勝てそうにない戦争に突入したのは我が国である。アメリカという巨大な戦争機械を本気にさせ、滅亡の縁まで追い込まれた。アメリカの都合で滅びずに済んだだけではないのか。それほど、戦争に負けるということは、国家にとって重大な事態なのだということをもっと理解してほしい。それを記憶に刻み込むために押しつけられた「太平洋戦争」という呼称を使い続けるのだと考えている。
 昨今のタカ派っぽい論者の諸兄は、軍事力のなんたるかを考えたことはあるのだろうか、と疑問を感じる。おそらく、自分が砲火にさらされることなどないから映画やゲームの感覚で論じているのだろうと勘ぐりたくもなる。
 戦争は勝たなくては意味がない。敗北すれば全てを失うのだ。ただし、「勝利」という言葉の意味を深く理解しなければいけない。
孫子曰わく、
 凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ。
 (中略)
 是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。
と、ある。
 これは、敵国を傷つけずに従わせることが最上の勝利であり、撃破して勝つことは次善策である。したがって百戦百勝は最善策ではない。戦わずして勝つことが最も大切である、という意味である。
 真の勝利とは、平和を維持することであり、軍事力は互いに冷静になるために存在するのであるから、軍事力の行使は本来、政策の失敗である。抜かずの剣こそが尊いのである。だから戦争に至ったプロセスを深く学び、同じ失敗を繰り返さないことが勝利であると考えるべきである。
 私自身は414柱の御霊に、次の一人を加えないことを深く誓いたい。しかし、いかにしても戦争をせねばならなくなったら、415番目になる覚悟を持ちたいと思う。

 最後に、慰霊祭は約1時間ほど続いたが、その間ずっと誰かのヒソヒソ声が方々から聞こえていた。1時間程度の神事でも黙っていることはできないのだろうか、と呆れかえってしまった。このような体たらくでは、子供達に道徳や社会の規範を説いても、真剣には聞いてもらえまい。