2010/11

暴力装置?

 先日(11/18)の参議院予算委員会において、仙石官房長官が自衛隊を指して「暴力装置」と表現した。抗議を受けてすぐに撤回と謝罪をしていたが、視ていてなかなか面白かった。
 私も元自衛隊員であり現在も予備自衛官であるから、他人事のようには聞けないネタではあったが、官房長官の問題発言を聞いて思い出したことが2つあった。
 ひとつは、ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」というSF小説。
 自衛隊の任務は大きく、国防・災害派遣・国際貢献に分けられると思うが、そのうちの国防においての最悪の状況が「戦争」であり、戦争とは国益のために行う外交上の行為のうち「暴力」を伴う国家の行動、ということになるだろう。官房長官の発言この点を捉えたものなのだろうと思うが、この暴力という言葉から思い出したのが、「宇宙の戦士」である。
 この小説の中で、主人公達をシゴキ上げる鬼軍曹が出てくるが、その彼が主人公達新兵に対して軍事力とは何かという話をする印象的なシーンがある。
 「戦争とはそう単純な暴力と殺戮ではない。戦争とは、目的を達成するための、抑制できる暴力なんだ。戦争の目的とは、政府の決定したことを力によって支持することだ。その目的は、決して殺すだけのために敵を殺すことではなく、こちらがさせたいと思っていることを相手にさせることだ。殺戮ではなく……抑制され、目的を持った暴力なのだ。」ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」(矢野徹訳)より
 この「抑制され、目的を持った暴力」という言葉の持つ意味を、いったいどれだけの政治家が理解しているだろうか。国会の質疑でも、シビリアンコントロールという言葉が飛び交っているが、軍事力についてのシビリアン=文民の役割は、この暴力を「抑制し、目的を持たせる」ことなのだ。ところが、我が国においてはヘタな「抑制」ばかりで「目的を持たせる」ことがおろそかになっている。
 いわゆる平和運動家の一部は、軍事力=戦争という非常に単純な論理で主張をし、また愛国心という言葉をことさらに使いたがる保守派みたいな論客達は、何かあるとすぐに力の論理を俎上に上げ、さらには歴史の再評価が大好きな様子である。いずれにしても国益を語るにはずいぶんとシンプルな議論であると思う。
 「抑制され、目的を持った暴力」を国家同士がそれぞれに行使する意志を見せ合い、そこに秘められた利益と危険を読み合い、時にそれを行使してしまう。こんなバランスオブパワーの世界において、個人的な思い入れやメンツ、表面だけの人道主義や組織内の小さな利害関係などをもって、外交や軍事の問題を小分けにしてもてあそぶことは、きわめて危険な行為である。
 領土や国家主権は永続的なものでも、国家にとって固有なものでもない。維持し、守り続ける覚悟と行動が伴わなければ、いずれは失われる性質のものと認識しなければならない。
 ここ最近、尖閣諸島、北方領土と領土に関する問題が起きている。中国漁船の衝突事件やその後の中国の態度、またロシアの大統領の行動や言動など、我が国にとって看過し得ない不当な行為である、という意見が至るところで見受けられるが、このような世論や論調で非常に気になる点がある。
 つまり、我が国にとっては不当な行為であっても相手にとってそれは正当である、という視点があまり見受けられないことである。こんなことを言うと、おまえはどちらの味方だ? という話になったりするが、事はそれほど単純ではない。相手が正当と考えている行為に対し、「それは不当である」とさかんに抗議したところで、一顧だにされないのではないか。それよりも、相手にとっての正当性を減じる策こそ必要なのではないか。
 相手にとっての正当性が減じられるということは、相手にとってその行為を続けた場合、得られると考えている利益よりも増大する危険の方が大きい、とその相手に思わせることだろう。バランスオブパワーとはそんな駆け引きに満ちた状態であり、日本以外の世界中の国々が認識している国際社会というものの本質的な姿である。
 軍事力とは、国を守る力であると同時に、外交上の駆け引きのための「暴力」でもある。この暴力という要素をいかに使うのかを考えるのが政治であり、シビリアンコントロールというものだ。だが、軍事力を使うといっても、その段階は様々だ。ただそこにいるだけでも何らかのメッセージとなる。軍事力の行使=砲火を交える、というのではあまりにも単純な考え方である。ここのところを政治家はもっと学ぶべきだろう。
 もうひとつ思い出したこととは、知識人を気取ってる面々はどうしていつも「〜装置」とか「〜機械」という表現を好むのかな? ということであった。やはり、ああいう表現をしている時は一種のエリート意識というか、進歩的知識人であるという陶酔感にひたっているのだろうか。まぁ、TPOを考えて発言してもらいたいものである。